04. 尾張藩士の徳山氏名簿

  尾張藩士の徳山氏については、「徳山一族」(日本家系協会、平成10年)に「尾張藩士に徳山氏あり」との記述があり、調べてみたいとは思っておりましたが、資料もなく、手がかりをつかめずにおりました。

  ところが、このサイトで尾張藩士の徳山氏の手がかりを探していることを見られて、2003年5月に名古屋の黄木宏行様からメールをいただきました。黄木様は尾張藩の「藩士名寄」や「分限帳」などに精通しておられ、ご親切にも、膨大な資料の中から徳山姓の藩士約30名を抜き出して(しかもデジタルで!!)送ってくださったのです。

  資料は膨大なものですが、尾張藩士末裔の徳山さんには垂涎の資料と思い、ここに掲載させていただきます。黄木様、誠にありがとうございました。

(以下、いただいた資料から構成)

注1)出典


  尾張藩の公式記録のうち、藩士についての資料は、「士林泝」「藩士名寄」「分限帳」の3種類。
ここでは、以下の2種類の「藩士名寄」を中心に抜粋。
   ・「名古屋市蓬左文庫蔵 稿本藩士名寄」写 稿本140冊
   ・「徳川黎明会徳川林政史研究所蔵 藩士名寄」写 45冊

注2)黄木様からいただいた注釈

  「稿本藩士名寄」は140冊(藩士133冊、職人4冊、神主1冊、寺院1冊、女中1冊)が現存しております。廃藩後放置されていたものが、補修丁付されまた一部綴直されて現在の体裁になっております。記述の内容は次の3種類に大別されます。

1 各家から提出された家譜をそのまま綴じたもの。寛政7〜9年、文化8・9の提出年次を記す。
2 各家から提出したものをもとに作製したとみられるもの。美濃紙半丁に8行を基本として御家流で書かれている。最終記事は天保2・3年で、系 譜はなく個人単位に列記されている。
3 様式は2と同じである。美濃半紙半丁に15〜19行ほど書かれている。虫損がひどく判読不能の箇所がおおい。宝暦・明和以降に仕官・相続の藩士を収録し、最終記事は明治4年である。

  以上のような内容の資料ですので、総収録姓数827姓の内、3種類すべてに記載されているのが約30姓あり、かなりの重複がみられます。

  また、林政史研究所の「藩士名寄」は「稿本藩士名寄」をもとに作製された、正本と思われます。従って「稿本藩士名寄」との重複がおおいのです。

(以下、抜粋)

(1)「名古屋市蓬左文庫蔵 稿本藩士名寄」の記述

          浪人濃州徳山居住
           徳山久三郎忰
 高弐百石        徳山平右衛門
一 平岩主計頭殿罷在後
  源敬様江御奉公成瀬隼人正同心被 召出
一 正保四亥十一月病死



          成瀬隼人正同心
           徳山平右衛門忰
 高弐百五拾石      徳山庄左衛門
一 父家督成瀬隼人正同心被 仰付
一 寛文二寅正月病死



         成瀬隼人正同心
          徳山庄左衛門忰
 高百五拾石     徳山七之右衛門
一 父家督被下成瀬隼人正同心被 仰付
一 享保二酉三月朔日依願隠居



       成瀬隼人正同心  仁右衛門
        徳山七之右衛門忰 平右衛門
 高百五拾石       徳山庄之助
一 元禄四未年初而 御目見
一 享保二酉三月朔日父七之右衛門家督知行
  無相違百五拾石被下置成瀬隼人正同心
  被下 
一 享保十巳七月十七日仁右衛門と改
一 宝暦八寅七月二日病死



       成瀬隼人正同心
        徳山仁右衛門惣領 平右衛門
 高百五拾石       徳山仁吉
一 元文四未八月六日新規 御目見
一 寛延四未十月廿一日平右衛門与改名
一 宝暦八寅八月父同姓仁右衛門令病死候付
  遺跡知行百五拾石無相違遣之同心ニ
  申付度由成瀬隼人正願之通心次第
  申付候様ニと被 仰出
一 安永三午二月病死



          成瀬隼人正同心
           徳山平右衛門惣領
 高百五拾石       徳山仁右衛門
一 安永三午二月廿五日亡父同姓平右衛門遺跡
  知行百五拾石無相違差遣同心ニ申付度旨
  成瀬隼人正願之通心次第申付候様ニ与
  被 仰出
一 寛政五丑正月十五日大御番組被
  仰付
一 文政四巳九月馬術多年志厚出精仕
  追々御馬方本役をも相勤候付拝領物
  被 仰付白銀五枚被下置
一 同六未十二月十八日願之通隠居



        徳山仁右衛門惣領 仁右衛門
 高百五拾石       徳山庄八郎
一 文化八未八月廿三日初而
  御目見
一 文政六未十二月十八日仁右衛門家督無相違
  被下置御馬廻組被 仰付
一 文政六未十二月廿三日御小納戸被 仰付
一 同月仁右衛門与改名
一 同七申二月十三日
  直七郎様御小納戸被 仰付
一 同八酉十月九日御書院番被 仰付
一 同九戌三月十七日病死



御書院番
          徳山仁右衛門二男 平三郎
 高百五拾石         徳山銕蔵
一 文化十四丑八月十五日初而
  御目見
一 文政四巳十月平三郎与改名
一 文政九戌三月十八日仁右衛門願置候通養子被
  仰付遺跡無相違被下置御馬廻組
  被 仰付
一 同年十一月十九日大御番組被 仰付
一 同十二丑四月廿一日病気指重り候付
  御書院番田代田一郎次男同姓礼次郎
  儀急養子願置病死



     大御番組
           徳山平三郎養子
               徳山禮次郎
     実田代田一郎次男
一 文政十二丑六月十八日徳山平三郎願置
  候通養子被 仰付遺跡無相違被下置
  御馬廻組被 仰付



          徳山仁右衛門三男 吉郎九
               徳山真十郎
一 文政三辰二月十五日初而
  御目見
一 同七申十一月吉郎九与改名
一 文政十一子九月廿四日病死



          成瀬隼人正同心
           徳山平右衛門二男
 御切米五拾石
                 徳山勘助
 御扶持三人分
一 寛文三卯六月三日五十人組より間宮甚兵衛跡
  右兵衛督様御膳番被 仰付御加増米拾石
  被下
一 延宝五巳二月御部屋御納戸尾崎惣左衛門跡
  被 仰付御加増弐拾石都合五拾石被成下
一 天和二戌正月八日病死



          御部屋御納戸
           徳山勘助忰
 御切米拾弐石
                 徳山勘助
 御扶持三人分
一 貞享五辰正月
  泰心院様御部屋五十人組被 召出
一 正徳五未十一月十五日年罷寄御奉公難相勤由
  五十人頭申達候付只今?之御切米之内六石
  御減御切米拾弐石御扶持三人分被下置小普請組
  被 仰付
一 享保十八丑七月廿日病死



          小普請組
           徳山勘助惣領  勘助
 御切米拾石
               徳山猶之丞
 御扶持三人分
一 享保十八丑九月廿五日父勘助病死以後可
  手寄親類等も無之甚及難儀候由ニ付
  以御憐愍年々金五両充被下置
一 享保二十一辰二月廿八日新規 御目見
一 寛保四子正月廿五日五十人組増人被 仰付御切米
  御扶持方並之通被下置只今?取来候
  御金ハ上ル
一 宝暦四戌九月廿六日病気依願御役儀御免
  御切米之内八石被 召上拾石被下之小普請組
  被 仰付
一 同七丑八月廿一日病死



          成瀬隼人正同心
           徳山七之右衛門次男
 御切米五十石
             徳山七郎次郎
 御扶持四人分
一 宝永五子十月六日稲葉林太夫跡留書役
  被 仰付並之御切米御扶持方被下之
一 正徳四午十月十一日七年無懈怠相勤候付如例
御褒美被下置旨被 仰出
一 正徳五未十月石川九兵衛跡五十人御目付被 仰付
  並之通御加増御加扶持被下置
一 享保四亥八月三日病気付御役儀難相勤
  御免之願申上願之通御免被 仰出御切米
  御扶持方只今?迄之通被下置小普請組被
  仰付
一 同八卯六月十九日
  千姫様御侍目付被 仰付御附属
一 寛保元酉十二月廿四日伏見御屋敷奉行被
  仰付御加増五石被下置御役料米三拾俵
  被下置
一 宝暦十辰正月六日久々相勤候付御加増米拾五石
  被下置都合御切米五拾石被成下只今?
  被下来候御役料米ハ上ル筈
一 同十三未七月廿八日老衰病気難相勤
  依願御役儀御免御馬廻組被 仰付
一 明和四亥八月廿四日忰林之丞当四月
  立去右之外男子無之ニ付右林之丞忰
  林弥儀願之通養子被 仰付
一 同年十一月三日病死



     信受院様御侍目付  林之丞
      徳山七郎次郎惣領 次郎右衛門
 御切米十八石
           徳山林之丞
御扶持三人分
一 享保十五戌三月朔日新規 御目見
一 元文三午三月四日下書役被 仰付並之通
  金五両御扶持五人分被下置
一 元文四未四月廿一日 御家御相続ニ付出精
  相勤候付為御褒美銀壱枚被下置
一 寛保元酉二月十五日御切米拾五石御扶持
  三人分被成下旨被 仰出
   只今?之御扶持方御合力金ハ上ル
一 延享二丑六月四日
  信受院様御侍被 仰付
一 宝暦元未十一月四日次郎右衛門与改名
一 同二申四月十六日園田惣左衛門跡
  信受院様御侍目付被 仰付御加増米
  三石被下置都合御切米拾八石ニ被成下
一 同三酉二月林之丞与改名
一 同八寅二月御充行被下来候通ニ而小普請組
  被 仰付
一 同年七月廿三日
  政所様御侍目付被 仰付御附属
一 宝暦十一巳三月四日小普請組被 仰付
一 同十二午二月廿九日
  恭姫様御侍目付被 仰付御附属
一 同年五月六日林之丞儀願之上是?
  父同姓七郎次郎与同居罷在候処今般
  轉役被 仰付候付伏見より京地江引越
  御殿近辺町宅致度旨依願外宅
  いたし候様申渡有之
一 同月七日座席之儀同役筆頭被成下
一 明和四亥四月十九日於途中一分難立義
  有之立退
一 天明七未五月八日去年就
  章善院様廿三回御忌御法事為
  御追善御国安堵御赦免被 仰出



                 松左衛門
                 丈助
       御馬廻組      五郎三郎
        徳山七郎次郎養子 百助
 御切米七十三俵     徳山林弥
  内三十六俵御足高   実徳山林之丞忰
一 明和四亥八月廿四日同姓七郎次郎願之通
  養子被 仰出
一 同五子二月朔日五十人組並被 召出御切米
  十五石御扶持三人分被下置
一 明和五子九月百助与改名
一 安永三午六月廿日五郎三郎与改名
一 同五申正月廿二日五十人組本役被 仰付
  御加増米三石被下置都合御切米拾八石
  被成下
一 同九子十一月四日丈助与改名
一 天明四辰正月晦日御薬込被 仰付
一 寛政四子正月廿六日五十人御供組被
  仰付御加増米弐石被下置都合御切米
  弐拾石被成下
一 同五丑四月松左衛門与改名
一 同九巳十一月廿三日新御番被 仰付
   座席小普請組与頭次席
一 享和二戌六月十四日病死



          新御番
           徳山松左衛門惣領
 御切米六拾七俵         徳山松衛
内三十俵御足高
一 享和元酉六月十九日初而
  御目見願済
一 同二戌四月廿九日亡父松左衛門遺跡
  御切米無相違被下置小普請組被
  仰付
一 文化十酉十一月廿日小十人組並被 仰付
  五拾九俵之高ニ御足高被下之
一 文政二卯二月十六日小十人組本役被
  仰付御足高八俵被下之御役高ニ被成下
一 同七申八月廿一日夜小普請組吉田勘之丞与
  及刃傷相果



          小十人組
           徳山松衛惣領
               徳山兼三郎
一 文政七申二月十五日初而 御目見
一 同年十月九日其方儀当八月廿一日父同姓
  松衛吉田勘之丞柴田吉蔵渡辺志摩吉
  同道丹羽茂左衛門宅江罷越候處松衛
  勘之丞令口論候付一座之者共倶々
  挨拶等いたし候由候處一統罷帰候於途中
  及刃傷候節其場ニ不居合由候得共右
始末取斗方も可有之處其侭打過
  不甲斐性之至候殊松衛未存命罷在
  候付療養加度自分心得を以宅江引取并
  右一件早速不申達旁不束至極之事候
依之改易被 仰付



          五十人組
           徳山勘助弟
                 徳山林平
一 元禄十二卯年新規 御目見



 御切米九石
             徳山庄左衛門
 御扶持二人分
一 延享三寅十二月御勘定方立会手代
  召抱御切米七石御扶持弐人分被下
一 明和三戌二月四日尾州郡奉行手代申付
  御充行並之通被下
一 天明二寅六月九日老衰難相勤依願
  御暇被下



        尾州郡奉行手代
         徳山庄左衛門忰 庄左衛門
 御切米九石
             徳山慶蔵
 御扶持弐人分
一 天明二寅六月九日親跡手代 召抱
  御切米九石御扶持弐人分差遣
一 同五巳十一月庄左衛門与改名
一 寛政九巳閏七月二日御充行被下来
  候通ニ而太田御代官方手代申付
一 文化三寅六月十九日大代官手代申付
一 同四卯三月四日病死



       大代官手代
        徳山庄左衛門養子 庄左衛門
             徳山銕助
一 文化四卯三月廿二日年々金三両充
  差遣御歩行格已下小普請申付
一 同九申十月八日御勘定方同心申付御切米
  六石御扶持弐人分差遣
一 文化十二亥十二月廿四日大代官手代並
  申付御切米七石御扶持弐人分差遣
一 文政元寅二月十日常々出精相勤
  候付本役申付加増米弐石差遣
一 同四巳六月庄左衛門与改名
一 同五午九月廿九日御徒格以下小普請
  申付



                 徳山三平
一 寛政九巳八月廿三日地方同心より庄内
  御代官方並手代申付加増米壱石
  雑用金四両差遣
一 寛政十一未八月大代官御預手代申付
一 同十二申四月廿七日御加増米弐石被下
  本役手代申付
一 享和元酉十月十六日小牧御代官手代
  申付
一 文政三辰五月十六日支配勘定並申付
一 同十二丑十月十九日支配勘定本役
  申付加扶持壱人分差遣



                 徳山鍋助
一 文政八酉九月四日小牧御代官内詰手代より
  大代官手代並召抱御切米七石御扶持
  弐人分差遣
   所附懸り可相勤旨
一 文政八酉十二月晦日支配勘定並申付





    家譜
             徳山松左衛門

    家譜    五十人組
             徳山松左衛門
  陰桔梗
    家紋
  丸ノ内三ツ地紙

清和天皇より廿六第
    徳山七之右衛門源忠村
 尾州成瀬隼人正同心知行百五拾石
 右七之右衛門より以前之儀ハ大御番組同姓徳山仁右
 衛門より
 差出申候是より別家

       徳山七郎次郎源忠郷
 留書役被 召出其後五十人御目付役其後小普請組
 其後
 信受院様御目付役其後伏見御屋敷奉行其後
 御馬廻組其後病死

         徳山林之丞源忠行
 下書役被 召出其後
 信受院様御侍其後
 御同人様御目付役其後小普請組其後
 政所様御目付役其後小普請組其後
 恭姫様御目付役其後小普請組其後
 御国立去其後
 御國安堵御赦免其後病死

 五十人御供組  山松左衛門源忠貞

 御目見未仕     徳山松衛源忠道

   以上
  寛政七年卯十二月



    家譜
         大御番組
             徳山仁右衛門

         若林次郎左衛門
          大御番組
             徳山仁右衛門
    家譜
      家紋 丸之内ニ三ツ地紙

清和源氏       徳山兵庫頭源某
         徳山宗右衛門元康
       徳山久三郎某
加賀大納言殿ニ仕後浪人濃州徳山住居

         徳山平右衛門忠政
平岩主計頭殿組ニ而罷在大坂御陣之節
源敬様御供仕其後元和六年申九月朔日
御黒印頂戴仕知行弐百石被下置成瀬
隼人正殿同心被 仰付候

         徳山庄左衛門忠廣
源敬様御代御通番被
召出正保四亥年父平右衛門遺跡知行弐百石
無相違居屋敷共被下置成瀬隼人正殿同心
被 仰付候

       徳山七之右衛門忠村
瑞龍院様御代父跡式被下置成瀬隼人正殿
同心被 仰付候其後奉願隠居被
仰付候

         徳山仁右衛門忠豪
晃禅院様御代享保弐年酉三月朔日父
家督知行百五拾石無相違居屋敷共被下置
成瀬隼人正殿同心被 仰付候

         徳山平右衛門公忠
源戴様御代宝暦八年寅十一月父遺跡
知行百五拾石無相違居屋敷共被下置成瀬
隼人正殿同心被 仰付候

 寛政七年卯十二月
    当代
     徳山仁右衛門
  恒忠

  右之通ニ御座候以上

大御番組
   二月 徳山仁右衛門

  先達而指出候家譜ニ相洩
  候ニ付左之通書付指出申候
     父同姓平右衛門娘
        松永七左衛門女
  右之通御座候以上



    書付
             徳山仁右衛門

    先祖   徳山平右衛門忠政
 平岩主計頭殿ニ罷在其後
源敬様江被 召出候
 右被 召出候年号支月日相知レ不申候
 正保四年亥十一月廿□日病死年齢
 不分明ニ御座候

    二代目   徳山庄左衛門忠廣
月日
正保四年亥 亡父遺跡被下置候
      不相知
 寛文二年寅正月廿六日病死年齢不分明ニ
 御座候

  三代目  徳山七之右衛門忠村
月日
 寛文二年寅 亡父遺跡被下置候
      不相知
 享保二年酉三月朔日依願隠居被 仰付候
 同三年戌二月十六日病死年齢不分明ニ御座候

    四代目  徳山仁右衛門忠豪
享保二年酉三月朔日父家督被下置候
 宝暦八年寅七月二日病死七拾五歳

    五代目  徳山平右衛門公忠
 宝暦八年寅八月廿二日亡父遺跡被下置候
 安永三年午正月廿□日病死四拾七歳

    當代
  六代目 徳山仁右衛門恒忠
 安永三年午三月廿二日亡父遺跡被下置候
 相勤罷在候

大御番組
  寛政九年巳三月 徳山仁右衛門





(2)「徳川林政史研究所蔵 藩士名寄」の記述

徳山仁右衛門
一 安永三午三月亡父平右衛門遺跡知行百五十石
  無相違給之成瀬隼人正同心
一 寛政五丑正月十五日大御番組被 仰付
一 文政六未十二月十八日願之通隠居



          仁衛門惣領
            徳山庄八郎
文政六未
仁右衛門
高百五十石 十二月廿三日
一 文政六未十二月十八日 御目見より仁右衛門儀願之
  通隠居被 仰付家督無相違被下置御馬廻組被 仰付
一 同年同月廿三日御小納戸被 仰付
一 同七申二月十三日 直七郎様御小納戸被 仰付
一 同八酉十月九日御書院番被 仰付
一 同九戌三月十七日病死



            
          仁右衛門養子
 高百五十石         徳山平三郎
一 文政九戌三月十八日 御目見より徳山仁右衛門願置
  候通養子被 仰付遺跡無相違被下置御馬廻組
  被 仰付
一 同年十一月十九日大御番組被 仰付
一 同十二丑四月廿一日病死


     御書院番
           田代田一郎次男
               田代礼次郎
高百五十石  徳山
一 文政十二丑六月十八日徳山平三郎願置候通養子
  被 仰付遺跡無相違被下置御馬廻組被 仰付
一 天保四巳十月廿日大御番組被 仰付
一 同六未十二月廿六日病死



中奥御番深田増蔵四男
深田吉郎
徳山
天保七申
平左衛門
六月十一日
天保十二丑
宗八郎
六月十八日
嘉永二酉
章八
八月廿六日
嘉永五子
章八郎
十二月廿日
安政六未
庄八郎
十月八日
文久三亥
弥右衛門
高百五十石 二月十二日
一 天保七申正月廿日徳山礼次郎願置候通家督相續
  被 仰付遺跡無相違被下置御馬廻組被 仰付
一 同八酉八月四日寄合組被 仰付
一 安政七申正月廿三日御廣敷詰被 仰付
一 文久二戌八月廿七日御小納戸被 仰付候御廣敷懸り
  相勤候様ニ与之御事候
一 元治二丑四月十日御使番格被 仰付
一 慶応二寅二月二日病死



弥右衛門□□
高百五十石 徳山辰次郎
一 慶応二寅三月廿五日 御目見より亡父弥右衛門願置
  候通遺跡無相違被下置御馬廻組被 仰付
一 同年五月十四日大御番組被 仰付
一 明治二巳九月二日御役名一等兵隊与被相改



  徳山三平
一 寛政九巳八月廿三日地方同心米六石弐人扶持
  取より庄内御代官並手代相成御加増米壱石
  雑用金四両被下置
一 同十一未八月大代官並手代相成
一 同十二申四月廿七日御加増米弐石指遣本役手代相成
一 享和元酉十月十六日小牧御代官方手代相成
一 文久三辰五月十六日支配勘定並申付
一 同十二丑十月十九日支配勘定本役申付加扶持壱人分
  差遣
一 天保元寅十二月晦日御充行被下来候通ニ而御徒格以
  下小普請申付
一 同十三寅十一月廿二日病死



          庄左衛門養子 
             徳山銕助
文政四巳
庄左衛門
六月
一 文化四卯三月廿二日年々金三両ツゝ差遣御歩行格
  以下小普請申付
一 同九申十月八日御勘定方同心申付御切米六石御扶持
  弐人分差遣
一 同十二亥十二月廿四日大代官手代並申付御切米七石
  御扶持弐人分差遣
一 同十五寅二月十日常々出精相勤候付本役申付加増米
  弐石差遣
一 文政五午九月廿九日御徒格以下小普請申付
一 天保六未十一月廿五日小普請頭筆役申付
一 同十四卯九月二日御蔵奉行手代申付
一 嘉永元申十二月十八日御徒格以下小普請申付
  御切米七石御扶持弐人分差遣
一 同四亥四月十日病死



松右衛門惣領
三十七俵   徳山松衛
一 享和二戌四月廿九日 御目見より亡父松右衛門願置
  候通遺跡御切米無相違被下置小普請組被 仰付
一 文化十酉十一月廿日小十人組並被 仰付五十九俵之
  高ニ御足高被下之
一 文政二卯二月十六日小十人組本役被 仰付御足高八
  俵被下之御役高ニ被成下
一 同七申八月廿一日夜小普請組吉田勘之丞与及
  刃傷相果



                 徳山鍋助
一 文政八酉九月四日小牧御代官内詰手代より大代官手
  代並召抱御切米七石御扶持弐人分差遣
   所附懸り可相勤旨
一 同年十二月晦日支配勘定並申付
一 天保七申四月二日水野御代官手代並申付
一 同十亥正月十一日水野御代官手代本役申付加増米
  弐石差遣
一 同十五辰二月十九日病死



鍋助養子
  徳山鍋吉
一 天保十五辰三月五日御切米四石御扶持弐人分差遣
  御徒格以下小普請ニ而差置
一 同年四月七日水野御代官手代並申付加増米
  三石差遣
一 弘化二巳七月九日水野御代官手代並之名目以来
  被差止
一 同四未正月十一日加増米弐石差遣
一 嘉永四亥八月十六日清須御代官手代申付
一 文久二戌十一月廿日格別之 思召を以御譜代席被 
  仰付
一 同年十二月廿九日今般家名永續被成下候付以来世禄
  御切米五石与可相心得旨
一 同三亥正月十七日加増米弐石差遣
一 明治二巳十月 日病死



鍋吉忰
五石   徳山真清
一 明治二巳十一月三日亡父鍋吉願置候通跡目相續
  申付御切米無相違差遣候
清須御代官内詰手代並是迄之通ニ而差置
一 同年十一月廿五日御役名邑宰方属吏与被相改
一 同三午二月十四日三等兵隊申付
一 同年五月廿三日願之通職務差免



庄左衛門養子
  徳山実助
一 天保七申四月二日御勘定奉行添物書より御勘定
  奉行物書召抱御切米五石御扶持弐人分指遣
一 同八酉十二月廿一日病死





(3)「家中いろは寄」の記述

主税筋坂下筋より東へ三けんめ北
一 百五拾石 寄合組 四
徳山章八 泰増寺

一 六拾七俵                        徳山松衛





(4)「仮名分名寄」の記述

亡養父 主税筋坂下筋より 御大番組 七
 百五拾石 東江三軒メ北側 徳山辰次郎

 拾壱石 清須御代官手代
三人分 徳山鍋吉


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