6.美作国の徳山氏

  「徳山地名事典」でも紹介した美作国真庭郡徳山村には、この地を苗字の地とする豪族徳山氏があります。南北朝時代の武将徳山将監を始祖とし、現在に至っています。


美作国徳山氏の歴史

  「徳山一族」(日本家系協会、平成10年)に、以下のように記されています。

「美作国の徳山氏は豪族なり。即ち、同国真庭郡徳山村より起こる。世々、上徳山の地頭職たりしものにて、応永年間の徳山右馬丞より、永禄の徳山新四郎に至る180年間、山中に於いて権威ありて、徳山屋敷などの古跡存す。その後、衰微して津山領となり、中庄屋たりという。」

  当地の徳山家の初代といわれる徳山将監は、南北朝末期に嫡男右馬丞とともに美作守護職赤松氏の重臣岩倉権守春時(上徳山岩倉城主)の家老であったといいます。このころ、伯耆の守護山名時氏は南朝に帰順していましたが、後に南朝側から離れたので、1353年、幕府は山名時氏の次男義理(よしまさ)を美作の守護にします。このため、美作の勢力地図は大きく変わり、岩倉権守春時は山名氏のために滅ぼされます。

  正平17年(1362年)山名時氏の美作攻略後、徳山将監は山名氏に属して、一時紀州に転戦し雨山城に居を構えますが、後に旧里に帰ったと伝えています。徳山家にはその時のものと伝えられる、応永2年(1395年)の「しゅうけん」から右馬丞に宛てた田地譲状1通が残っています。当時は兵農未分離の時代ですから、戦国時代に至るまで、美作の国人として勢力を張ったのでしょう。太閤検地などによって兵農分離がなされた頃から徳山家も帰農したと考えられます。

  江戸時代末期の文化頃の利左衛門から周蔵、集蔵の3代の間に、徳山家は急速に土地の集積を進め、文政5年(1822年)には100石を越えて、山中地方(真庭郡北部)屈指の地主へと成長します。徳山家は、「山中タバコ」の販売を営むとともに、酒・酢・醤油製造なども手がけ、上福田村庄屋、中庄屋などを歴任し、村内での指導的地位を確立します。また、周蔵、集蔵の代には鉄山経営にも乗り出し、美作から伯耆にわたり30数山の鉄山を持って、砂鉄の採取から鍛冶屋経営まで−つまり、鉄の採取から製品生産までの工程を一貫して経営する大鉄山師となっていきました。明治以降も、集蔵の孫朝太郎が川上村長を勤めるなど、地域の名家として存続しています。

以上は、「川上村史」(昭和55年)などをもとに記述しました。


美作国徳山氏の遠祖

  美作国徳山氏の遠祖について、「徳山一族」は、徳山蒜天氏提供の資料として、以下のように記しています。

「当家の遠祖は、大織冠藤原鎌足公四代の孫、参議藤原乙麿二十代の後胤貞衡なり。即ち、貞衡は美作国の守護となる。これより其の子孫は、美作国大庭郡徳山村に住す。故に地名に因みて徳山を称す。

      藤原鎌足――不比等――武智麿――乙麿・・・貞衡・・・徳山将監広照

【徳山将監広照】
  赤松氏の臣、岩倉春時の家老職を勤む。康安の頃、山名時氏美作守護になるに及びて将監父子は山名氏に従う。而て、紀州に転戦、雨山城に居を構えたり。その後、明徳の頃、山名氏衰退によりて再び赤松氏美作守護になるに及び将監父子も旧里に帰りたり。而て、将監は家督を嫡子右馬丞に譲りたり。その後、追々武門を退きて農事を営む。嘉吉元年歿。」

  また、同じく、将監以降の系図を以下のように記しています。(表中、○は金へんに冊の字)
初代 将監広照 14代 敬久(平左衛門)
2代 広次(右馬丞) 15代 敬嗣(利兵衛)
3代 広貞(周○) 16代 敬方(平右衛門)
4代 広郷(権之助) 17代 敬明(幸助)
5代 広綱(七郎左衛門) 18代 敬寛(利左衛門)
6代 広安(与四郎) 19代 敬猛(周蔵)
7代 敬連(徳右衛門) 20代 敬忠(集蔵)
8代 敬元(新四郎) 21代 敬錫(周蔵)
9代 敬近(弥三郎) 22代 敬信(馬太郎)
10代 敬房(弥三郎) 23代 敬篤(朝太郎)
11代 敬益(与三右衛門) 24代 高之
12代 敬隆(与三左衛門) 25代
13代 敬国(与三右衛門) 26代 周一

  当徳山家の一族は、川上村のみならず、岡山県内の岡山市、津山市、勝山町、久世町、八束村などに広がっている旨、ご一族の徳山蒜天様よりお教えいただきました。貴重な情報ありがとうございました。


津山藩士の徳山氏

  津山藩士(藩主松平氏)にも徳山姓があります。津山藩は、森氏(本能寺の変で信長に殉じた森蘭丸の弟、森忠政を初代藩主とする)が5代で改易となった後、元禄11年に、越後高田より松平氏が入り、幕末まで9代続きます。

  この松平氏は名門であり、徳川家康の次男(2代将軍秀忠の兄)=結城秀康の長男=松平忠直の長男=松平光長が越後高田藩主になり、次の代に津山に至るわけで、即ち、越前松平氏の宗家に当たります。(この間の経緯については、忠直卿の乱行、高田藩の越後騒動・改易など、興味を引かれる話題がたくさんあるのですが、このページの主題ではないので残念ですが省略です。)

  さて、何故、こんな話を紹介してきたかというと、津山藩士の徳山氏の出自の手がかりになるからです。「5.越前国の徳山氏」で紹介したように、「徳山五兵衛則秀の弟、忠右衛門尉秀貞が越前に行き、その子息五太夫秀起の代に福井藩主結城秀康に仕えた」とされていますから、この徳山氏の一族の誰かが松平光長に従って高田に行き、さらに津山に来た可能性があります。もしそうだとすると、津山藩士の徳山氏は美濃国徳山村の徳山氏の流れとなります。

  あるいは、美作国徳山村の徳山氏の一族が津山で仕官したとすると、津山藩士の徳山氏は川上村の徳山氏と同族となります。古文書か家紋を比較すればわかるかもしれません。一度調べてみたいものです。

  さて、その津山藩士の徳山家は2家あるようで、津山藩分限帳に以下のような記載があります。

●天保3年津山藩分限帳(藩主松平氏)
   21俵3人扶持 徳山與四夫
   18俵3人扶持 徳山祐十郎

●安政3年分限帳
   45俵(大御番組) 徳山勢兵衛
   21俵3人扶持(大役人) 徳山清兵衛

●津山藩禄制席次(明治3年)
   十級(禄百石、取米45俵) 徳山佳介(田町)
   十四級 徳山銓一郎(北町)


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