旧徳山村は徳山ダムに沈む村として知られています。 元は美濃国大野郡徳山郷という古くからの地名です。明治になり岐阜県大野郡徳山村となりました。徳山ダム建設のため、1987年に移転のため無人となり藤橋村に編入合併。さらに2005年から揖斐川町に編入され、現在では岐阜県揖斐郡揖斐川町徳山(ぎふけんいびぐんいびがわちょうとくやま)となりました。この地は徳山氏苗字の地の一つです。
徳山の地名の由来について、「徳山村史」(昭和48年発行)に以下のような記述があります。承和11年(844年)頃、坂上貞守(坂上田村麻呂4代の孫、一説に田村麻呂の舎弟鷹主の子)が「故あって勅勘を蒙り、濃州の山谷に左遷された」。やがて許されて都に帰る時、たまたま鶯の雛を捕らえ、籠に入れて帝に献上した。帝は大いに喜ばれ鶯を捕らえた山の名を聞かれたが、貞守は土地の人々はただ山の中と呼ぶばかりで名前は知らないと答えた。帝は、今後その山を「鳥籠山(とこのやま)」と名付けよと命じ、貞守に領地として与えられた。
「徳山村史」は、徳山家伝系図や寛政重修諸家譜などをもとに記述しており、徳山家伝系図に「鳥籠山今名徳山是也」とあります。この地の徳山氏は、代々美濃国大野郡徳山を領し、はじめ「とこのやま」、後に「とくのやま」と称していたようです。
なお、坂上貞守は文徳天皇の仁寿元年(851年)2月、美濃国の権介に就任し、順次権守、美濃守と昇任し、貞観4年(862年)正月まで美濃国の国司として政治に関わっています。
さらに余談ですが、岐阜県旧徳山村の地名の由来(出典「徳山家伝系図」)として「鳥籠山(とこのやま)」の話を書きましたが、日本書紀に壬申の乱の戦場として滋賀県彦根市大堀町の「鳥籠山(とこのやま)」が出てきます。この「鳥籠山(とこのやま)」は万葉集でも歌われています。「徳山家伝系図」の話もこのあたりがヒントになって生まれたかもしれません。