この徳山氏は、「清和源氏土岐氏族徳山氏」で紹介した徳山貞孝の子、四郎兵衛尉に続く家があるほか、いくつかの流れがあるようです。小松市、松任市は徳山氏ゆかりの地です。

「徳山氏史伝」の記述

 石川県の徳山宗作氏が昭和41年に書かれた「徳山氏史伝」によれば、徳山五兵衛則秀の兄、四郎兵衛尉が賤ヶ岳の合戦での敗戦後、加賀国今江に遁世し帰農したという。徳山宗作氏自身もこの末裔です。その記述の抜粋を下記に示します。

 初代四郎兵衛尉は父徳山貞孝とともに加賀の一向一揆と戦い、天正8年(1580年)に徳山五兵衛則秀が松任城主になった時、同じく御幸塚城主となった父を補佐したといいます。後、賤ヶ岳の合戦に参加、敗戦後岳父今江藤右衛門をたのみ今江に遁世、帰農したとしています。
 2代四郎兵衛以後、当地にあって肝煎(庄屋)、組合頭(相役)であったといいます。初代清助の代に今江から小松町竜助(現在の小松市竜助町)に移って商売をはじめ、3代清助の代には小松町有数の豪家となったとしています。

徳山氏ゆかりの地 ー 小松市、松任市

 まず、小松城について、「織田信長家臣人名辞典」に概略以下のような記述があります。
 『徳山則秀 永禄年間から信長に属す。越前の地に知行地を賜る。而て、天正3年8月、柴田勝家に従い、越前一向一揆討伐戦に参加、以後、勝家の与力として従属す。而て、加賀小松城を領し、12万石と号す。』
 また、最近になって、徳山五兵衛則秀が小松城の初代城主であったことが確認されています。以下は2001年2月26日付け某新聞記事です。
『2月21日、小松城を創建したのは戦国武将の柴田勝家で、初代城主は前田利家家臣の徳山五兵衛とする新説が金沢市玉川図書館近世史料館の史料によって裏付けられた。小松城は、通説では郷土史『越登賀(えっとか)三州志』(1798(寛政11)年)にある若林長門の築城とされていた。今回は、『宝永記』((1704(宝永元)年)に、勝家が築城して五兵衛が初代城主とあることが確認された。』

 また、同じ小松市内に、御幸塚城があり、これも徳山氏と関係のある城です。「三州志」御幸塚の條に以下の記述があります。
『天正4年、(中略)佐久間盛政、徳山五兵衛、利兵を提げ奉りて、御幸塚を陥塁し、二将、この塁に拠って賊を撃つ。(中略)8年、勝家、御幸塚に陣し、且つ徳山少左衛門(少は庄、或いは勝に作る、五兵衛の父也)此の塁に居せり。』

 さらに、同書、松任城の條に以下の記述があります。
『柴田勝家、令して徳山則秀をして、此の城を守らしむ。』
『石川郡の内、松任は徳山五兵衛則秀領。天正8年、勝家令して、これに置くなり。領内石高不詳。これより先、能美郡御幸塚に居す。』

 以上のように、断片的な記録がいくつかあり、順序などちょっと混乱してしまいます。完全に正確にはわからないのですが、整理のため、五兵衛の履歴を年表にしてみましょう。

 御幸塚城と小松城については、城主と言っても守備の大将と言うところでしょうか。松任については領主として領内を治めたようです。賤ヶ岳の合戦にも松任から出陣したと思われます。
 その後、前田利家に仕えた際にも小松に住んでおり、小松市、松任市が徳山五兵衛のゆかりの地であることは間違いないようです。
 現在石川県には79世帯の徳山さんが住んでいて、世帯数密度では第4位(「徳山姓の都道府県別分布」参照)にあたります。上記「徳山氏史伝」に書かれた流れのほかにも、同じ一族の流れをくむ徳山さんがいらっしゃるのではないでしょうか。