美濃国大野郡徳山より起こった徳山氏は、坂上姓を称し、坂上田村麻呂の4代の孫、坂上貞守よりこの地を領し、その末裔貞信に至り、徳山を家号としたと伝えています。

徳山貞守 ー これより徳山を領す

 この系統に伝わる家伝によれば、「坂上田村麻呂四代の孫左兵衛督貞守より美濃国大野郡徳山を領す。その末孫貞信に至り、徳山をもって家号とす。」とあります。徳山家伝系図に、「坂上大宿禰貞守 - 左兵衛大尉、従四位下、弓馬の達人」と書かれています。
 坂上貞守はこの地の地名にも関わる人物で、これについては「徳山地名事典」「①岐阜県旧徳山村」の項でも紹介しました。貞守の経歴を見ると、以下の通り、 美濃国に関わりが深いことがわかります。
     仁寿元年(851年)2月、左近衛少将で美濃権介を兼任
     斉衡2年(855年)正月、丹波権介
     貞観元年(859年)正月、美濃権守
     貞観2年(860年)11月、美濃守(貞観4年(862年)正月まで)

坂上氏のこと

 「坂上系図」によれば、坂上氏は応神天皇の時代に、本国の乱を避けて、母、妻子、七姓漢人等を率いて帰化した阿智王(阿智使主)を祖としています。系図では、阿智王は後漢の霊帝の6代の孫としています。
 また、「群書類従」の「坂上田村麻呂伝記」には、「大納言坂上大宿禰田邑麻呂(坂上田村麻呂)は前漢高祖皇帝より出づ。二十八代前は後漢の光武皇帝に至る。十九代前は霊皇帝なり。十三代前の阿智王は一縣同姓百人を率いて、漢朝(中国)を出て本朝(日本)に入る。(それは)応神天皇二十六年の時であった。」と書かれています。
 最近の研究では、阿智王は朝鮮半島慶尚南道の咸安にあった南部伽耶諸国中の有力国、安羅(安耶)国の子孫と考えられています。坂上氏の祖先が阿智王という王族の渡来人であることはある程度信憑性があるようですが、中国の皇帝の子孫というのは権威付けのために後に主張したと考えられています。
 坂上田村麻呂は、その阿智王から数えて13代の孫。征夷大将軍として蝦夷を平定して大功があり、正三位大納言にのぼりました。坂上貞守は、家伝によれば上記のように「坂上田村麻呂四代の孫」とされていますが、「坂上系図」では田村麻呂の弟、鷹主の子となっています。
 ※坂上氏のさらに詳しい系図についてはこちら

坂上貞信 - 徳山元祖

 初めて徳山を苗字としたのは坂上貞信とされています。「徳山元祖」と記した古文書もあるようです。ただし、当時は「とこのやま」と称していたようです。
 「徳山家伝系図」によれば、「徳山二郎右衛門尉貞信、貞守より三十二代之孫、濃州徳山之城主、新田義貞の麾下に属して軍功あり」とあります。卒年は応永11年(1404年)。
 徳山氏は奥美濃を根拠地としていますが、この地は美濃と越前の中間に当たり、かつ重要な通路となっていました。このため、徳山氏は常に美濃と越前の間に挟まれて厳しい情勢判断を迫られています。貞信の代は南北朝の争乱の時代。当時、越前は南朝方であり、徳山氏は新田義貞麾下の南朝方として、北朝方の美濃の守護土岐氏と対峙していたようです。

徳山貞幸と明徳の戦い

 貞信の子、徳山郷右衛門尉貞幸は土岐氏に従っています。家伝系図によれば、明徳2年(1391年)、南朝方の山名氏清が京都の幕府方を襲った際、足利義満の命を受け、京極高詮に属して戦い、京都二条大宮において討死したと伝えています。

徳山貞長と土岐氏

 貞幸が京都で戦死したため、貞信は、美濃で勢力を持つ守護土岐頼忠の末子七郎二郎頼長を迎えて娘婿とします。頼長改めて、出羽守貞長と称します。 貞長は永享10年(1438年)、美濃赤坂の合戦で戦死しています。
  土岐氏は清和源氏頼光流であり、当流徳山氏はこれより後、源姓に改めることになります。つまり、「清和源氏土岐氏族徳山氏」は当流に続くものです。