この徳山氏は、「清和源氏土岐氏族徳山氏」で紹介した徳山貞孝の子、忠右衛門尉秀貞に続くものです。
「徳山氏史伝」の記述
石川県の徳山宗作氏が昭和41年に書かれた「徳山氏史伝」によれば、徳山五兵衛則秀の弟、忠右衛門尉秀貞が越前に行き、その子息五太夫秀起の代に福井藩主結城秀康に仕えたとしています。徳山宗作氏は徳山貞氏系図に拠ったと書かれています。その記述を抜粋したものが下記です。
秀貞
「兄則秀に属して軍功あり、後、越前に遁世」
秀起
「越前黄門秀康卿越前入国後、召し出され、新知100石を賜う。忠直公の御代に子細ありて致仕し、福井赤坂に浪居」
昭貞
「徳山茂右衛門と称し、後、河合に改む」
昭勝
「河合茂太夫と称す」
氏起
「河合茂太夫弟。御徒に召し出され分家す。徳山に改む」
「徳山一族」の記述
「徳山一族」(日本家系協会、平成10年)によれば、「福井藩士に徳山惣左衛門あり。而て、同藩に儒者として著名な徳山重陽あり。通称唯一。茂太夫の子。初め徳山惣左衛門に学び後、越藩の伊藤氏の門に入る。藩の明道館の酒祭に任ぜらる。明治3年に没す。74歳。」とあります。
また、「福井藩御家中名字屋鋪所書(嘉永年間)」に、
十八石三人扶持 徳山茂左衛門(毛矢町)
十八石三人扶持 徳山勝次郎(鷹匠町)
とあります。
上記「徳山氏史伝」に伝える家だけでなく、複数の徳山家があるようです。
福井県の徳山氏は世帯数密度で第8位(「徳山姓の都道府県別分布」参照)です。