この徳山氏は「美濃国坂上姓徳山氏」のあとに続くもので、貞信の養子貞長が土岐氏の庶流であったことから、清和源氏を称えるようになったものです。

徳山貞長より源氏に改む

 美濃守護土岐頼忠の末子七郎二郎頼長が徳山貞信の娘婿となり、当流の徳山氏はこれより清和源氏を称えることになります。頼長改めて、出羽守貞長と称します。また、これに伴い、家紋についても、それまで使用していた十六葉菊、五七桐から、土岐桔梗に改めることとなります。
 「新撰美濃志」大野郡徳山村の條に、「徳山氏。徳山七郎二郎源貞長(始め頼長)は、土岐左近将監頼忠の子にて、徳山郷に住みしが、当国赤坂にて戦死す。」とあります。「徳山家伝系図」には、永享10年(1438年)5月15日に「美濃赤坂合戦で討死高名也」と書かれています。

土岐氏のこと

 土岐氏は清和源氏頼光流であり、南北朝時代より美濃国守護として勢威をふるった一族です。源頼光の6代の孫光衡の時(光信の時とする説もあり)に美濃国土岐郡土岐郷に居住し、土岐を苗字とするようになります。
 さらに5代の孫頼忠も美濃の守護となり、以後、この系列に守護職を伝えます。斎藤道三に国を盗られることになった美濃の守護土岐頼芸は頼忠の5代の孫になります(司馬遼太郎「国盗り物語」に詳しい)。また、明智光秀の明智家も土岐の一族で、本能寺に翻る明智の旗も桔梗の紋を付けていました。

源頼光-頼国-国房-光圀-光信-光基-(土岐)光衡-光行-光定-頼貞-頼清-頼忠
  ※清和源氏頼清流のさらに詳しい系図についてはこちら

徳山出羽守貞次と縫殿助貞友兄弟

 出羽守貞長には2人の子があって、長男を出羽守貞次、次男を縫殿助貞友といいました。応仁の乱(1467-1477)から戦国時代に入ろうという時代です。出羽守貞次は、初め朝廷に仕え、後に足利将軍に仕え、文明8年(1476年)4月5日なくなります。また、縫殿助貞友は越前の朝倉氏に属していました。

徳山次郎右衛門貞輔と戦国時代

 貞次の子、次郎右衛門貞輔は、「徳山家伝系図」に、「足利将軍義尚公の命により、越前の主朝倉左金吾貞景の麾下に属し軍功あり」と記されています。貞輔に越前国南条郡大塩保内の支配を認める、文明4年(1472年)の朝倉孝景の文書が残っています。
 一方、美濃でも土岐頼忠の3代の孫美濃守護土岐成頼の相続問題を巡って、長期にわたる戦乱が始まります。成頼の嫡子を政房、末子を元頼といいましたが、守護成頼が嫡子の政房を廃して末子の元頼を守護に立てようとしたことがきっかけです。明応4年(1495年)、守護側の成頼・元頼派には守護代斎藤利国の家臣、小守護代石丸利光が味方し、対する土岐政房派には守護代斎藤利国らが味方し、美濃の争いが始まります。
 徳山貞輔は土岐政房派に加勢します。政房はこの戦いに勝利し、守護の座に着きます。この頃、徳山貞輔に大野郡牛洞と賀茂郡揖深の地を支配するよう命じた頼武(政房の長男、後の守護)の文書が残っています。

徳山貞隆と貞孝兄弟

 貞隆・貞孝兄弟の時代には、朝倉氏・土岐氏両方の幕下に属しています。徳山谷の地理的条件のため、徳山氏は南北朝の時代から戦国期にかけて、概ね越前の勢力と結んで美濃の戦乱をしのいでいるようです。
 この時代もその勢力図は同様です。土岐政房の相続問題を巡る永正14年(1517年)の戦いにも、徳山貞隆は朝倉氏とともに頼武を支援しています。また、頼芸と斎藤道三の間の天文13年(1544年)の戦いにも、徳山貞隆は、9月19日、赤坂において斎藤勢と戦ってこれを破り、井口に迫って城下に放火した旨、朝倉宗淳に書き送っています。
 貞隆の死後、永禄7年(1564年)、織田信長が斎藤竜興を攻めて美濃を支配します。この時、徳山貞孝は竹中半兵衛等とともに降伏し、織田家に仕えることとなります。

各地の徳山氏への発展

 織田家に仕えた徳山氏は、長篠合戦や越前・加賀の攻略に参加し、織田家の隆盛とともに発展していくことになります。貞隆、貞孝以降の世代については、以下に示すとおり、それぞれのページで解説することとします。